近世「知識人」の誕生

 江戸時代に生きた人たちは、私たちが思う以上に勉強熱心だった。もちろんそれは、比較的裕福な暮らしをしていた人に限られていたわけだけれども、武士だけでなく、商家や農家出身でも経済的に余裕がある人たちには強い知識欲があった。

 幕末から明治にかけて、西洋の学問が入って勉学の必要性が高まったことは事実だけれど、庶民も含んだ人たちが急に自覚したわけではない。そこには近世の学問と知識人層の厚さがなければ実現しないことだった。

 ひとつは、江戸時代中期以降の洋学ブームである。キリスト教を介しない西洋の学問に対する規制が緩和されるなかで、オランダ語で書かれた書籍が一部の人の手に渡った。これらは翻訳され、写本を繰り返すなかで学者たちの知識として共有されていく。

 ふたつめとして、江戸時代前期から続いた朱子学の研究がある。ただこれは、何も幕府や諸藩が主導したものではない。従来、朱子学大義名分論に基づき、為政者に都合のいい学問だったから、公儀が率先して普及に努めたと理解されてきたけれど、実際のところは事実と異なることが明らかとなってきた。

 すなわち、民間レベルで朱子学の検討が繰り返されるなかで、幕府や諸藩も子弟教育の一環として取り入れるようになったのである。実際、幕府が朱子学者に公的な地位を認めたのは江戸時代になって100年ほど経ったときであり、それまでは形式的に禅僧が行う研究という理解がなされていた。各地で藩校が開かれるのも、中期から後期にかけてである。

 みっつめに、朱子学に対する批判的検討から、日本の歴史や文化を主体とした国学が形成されていく。国学というと、神話を無批判に受け入れたもののようなイメージを抱く人がいるけれど、その発展には従来の神道朱子学を見直し、合理的見地から再構成しようとしたというのが実態に近い。

 同時に、後期に広がる洋学にも刺激を受け、多くの著名な国学者も輩出していく。

 江戸時代に広がった洋学、朱子学国学。これらに共通することは、学問的態度として不可欠な批判精神と合理的思考の構築である。もちろん、近代以降の科学的知識は不十分であり、社会認識も異なる以上、現在から見返すと違和感のあるものも少なくない。

 しかしながら、先行研究に刺激を受け、同時にそれを批判しながら止揚、つまりより高い価値を見出していく態度が磨かれていったことが、結果的に西洋の知識をいち早く受け入れる土壌につながったといっていい。

 興味深いのは、近世の学問を担った人たちは、江戸や大坂という大都市にとどまらず、全国各地にいたという点である。藩校の教授という人もいれば、寺小屋の先生や市井に暮らすただのオッサンということも少なくなかった。特定の場所や階層に限定されず、出自も地域もバラバラであったことが、知識の全国的な共有と一般理解のボトムアップにもつながった。

 これは、冒頭で触れたように豪農や豪商の子弟が、どん欲に学問を吸収し、知識人とのネットワークを構築していったことと併せて、近世日本の教育水準に大きな影響を与えたものといえる。

 したがって、庶民レベルでも知識はある程度の共有がなされていった。迷信とは全く無縁だったとはいえないけれども、逆にそれを芝居などに昇華させることができていたというのは、合理的なものの考え方がすでに一般にも広がっていたことを示すものといえる。

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■幕末庶民のプライドが垣間見える「かわら版」と「古写真」研究

(THE PAGE - 07月08日 18:22)